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2007年11 月10日 (土)

コメント

えらままん

なぜそんなに孔雀が見たいのだー笑
でも早く見えるよえになっていただいてわしの不安を払拭していただきたいもんだなぁ
ちみはそんなことで嘘はいわないやろから、ちみが見えると言ったら見えるのだろう・・
幻覚でなければ。ぶひひー

ふぃん

だって孔雀がいるんだよー。
見たいよー。

人に見えて、自分に見えないのが悔しい。
単に負けず嫌いって話もあるんだけど。

ま、数年はダメみたいだからさ、のんびりいくんだけど。
きっと君の方が早く見えるようになるんだよ。あー悔しい。

・・・この悔しいって気持ちを乗り越えないといけないらしい・・・
でも悔しい(笑)。

chiko

心臓がカミサマを感じるための感覚器官だって話、知ってる?知ってるわけないか。ま、シュタイナー派の人の本にあったんだけど。シュタイナー本人の意見かどうかは知らないけど。まあでも、似たようなものでしょう。心臓は血液を味わってるらしいし。

瞑想って、結局は、感覚を研ぎ澄ますためのものだから、日常のことにフタをしてたら、感覚の研ぎ澄ましようがないんだと思うんだよね。

いわゆる感情も感覚器官のひとつだしね、自分の感情にフタをしてる限りは、やっぱり感覚器官のひとつが閉じてるわけだし。

だからなんだって・・・よくわからんけどさ。

ふぃん

やっぱりフタをしてるのかなあ。
いつもフタしてるって言われるんだけど。
日常を味わうっていうのがねー。
フタしてるっていうより興味が無いんだけど、良さが分かると興味も出てくるのかなー。

せっかく生きてるんだから、毎日が楽しくないと意味がないとは思うんだけど、だからって松村潔さんが日常を味わってるようには見えないしさー。
子供産んだ私には、自動的にそっちの道が付いてくるんだな。きっと。

一応和ヨーガでも、先生にやってもらう時に「ハートのチャクラ開いといてください。」って言ったんだよ(笑)

心臓で、神様と日常どっちもに繋がるというのが難しいんだな。

そうそうケヴィン・ターナーさんとこでハートに入る瞑想っていうのをやったんだけど、本当に自分がリアルな心臓に入った所を想像するのだ。
血液や心臓の内壁を想像して、感触なんかを感じるんだな。
えーって思ったんだけど。

それであったかい人になれるとは思えないよね。
みんな苦労してるみたい。

chiko

・・・なんかちょっと違う。

フタをはずすというのは、日常を楽しむこととはなんの関係もないよ。むしろ、日常のイヤな部分が噴出するかもしれない。自分の感情の、表面ではなくもっと深いところに正直になる、という感じじゃないかなー。

だからその結果、アタマで人生をコントロールできなくなるのだ。自分の感情が激しすぎて。もちろん、噴出したあとに、アタマと感情のバランスが取れて、その中間で人生がコントロールできれば、それはそれでいいんだろうけど。それはそう簡単ではないと思うなー。たぶん。知らんけど。

ふぃん

フタをはずすって感情を解放するってことじゃないの?
感情の表面も深い部分もきちんと感じましょうってことだと思ってるんだけど。

普通いい所は感じたくても、イヤな所は逃げるじゃない。

子供や日常生活に関しては、私はイヤな所から逃げるために良い所も感じなくなってるから楽しめないって理解してるんだけど。

良いところも悪い所もしっかり感じたら、それはやっぱり大変だよね。
理性ではコントロールできなくなると思う。

それでいいってことなんだろうけど。
私はもうちょっと、そっちの世界に行きなさいってことだな。
レールに乗ったものを楽しいと感じてしまうから。

でも感情は絶対的な物では無いって話もあるよね。

しっかり感じつつ客観的に見るっていうのが難しいんだろーな。

私はたぶん、不感症だからその辺が分かってないんでしょう。

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